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【史料 曄崟亳銀山旧記」

大永中に大内之介義興、当国を領有する時、筑前博多に神谷寿亭と云うものあり。雲州へ行かんとて、一つの船に乗り石見国の海を渡る。はるか南山を望むに 然なる光有り。寿亭船子に南山のあかるくあきらかなる光あるは何故やと、問いければ、船郎答えて申すけるは、是は石見の銀峰山なりと語り伝う。彼の峰銀を出せしが、今は絶えたり。唯観音の霊像のみありて、此の山を鎮護し、寺を清水寺と申。時々この応現あり。此山ふたたび銀を出す奇瑞なるか。今夕の霊光常の時より十倍す。量り知るに貴公の信心観音大王に通しけるならんと、懇にこそ語りけれ。寿亭大いに悦び、帆を巻、纜を繋ぎ、温泉津湊に入て夫ヨリ銀峰山に登り観音を拝し奉り、又船に乗て雲州の鷺浦銅山主三島清右衛門ニ逢て、石州銀峰山の霊光の事を物語けるに、三島是を聞いて申しけるハ、定て白銀ならんか。弐百年前周防国主大内之介弘幸、北辰の託宣に因て、大に銀を得たる事有り、今に至迄言伝ふ。いかにも疑へからす。願くハ彼峰に登りて、銀なりや否やを試ミ、又霊仏をも拝せんとて、神谷、三島相共に大永六年丙戌三月廿日、三人の穿通子吉田与三右衛門、同藤左衛門、於紅孫右衛門を引連て銀峰山の谷々ニて石を穿ち、地を掘て大に銀を採り、寿亭皆収め取り九州に帰りけり、是よりして石見国馬路村の灘、古柳鞆岩の浦へ売船多く来り、銀の鏈を買取て、寿亭が家大に富ミ、従類広く栄へけり、銀山へも又諸国より人多く集りて、花の都の如くなり、享禄元年大内義興矢滝城の城主を以銀山の押とす、矢滝の城銀山より一里計り南也  此時小笠原長隆、志谷修理太夫、平田加賀守を以矢滝の城を攻落す、頃ハ享禄四年卯月二月下旬なり、長隆銀山を領する事三年の内銀を出す事夥し、天文二年大内復銀山を取返して、吉田若狭守、飯田石見守両人に仰セて、銀山を守護しけり、此年寿亭博多より宗丹桂寿と云うものを伴ひ来り、八月五日相談し鏈銀と石と相雑ものを鏈と云  を吹熔し、銀を成す事を仕出せり、是銀山銀吹の始り也、吹大工ハ采女の丞、大蔵の丞なり、吉田若狭、飯田石見是を奉行し、毎年銀子百枚を大内へ貢納す、其後天文六年八月十六日、雲州の尼子銀山を攻め、吉田、飯田を誅戮す、吹大工采女ハ尼子に従ひ銀を吹、小笠原、福屋、三隅、益田等諸士皆尼子晴久の旗下に属しけり、天文八年五月下旬、大内介復銀山を攻て取返し、正重を以て奉行と成し、大蔵丞、坂次郎、采女丞等昆布山谷ニて銀を吹、毎年の運上銀五百枚也、又天文九年九月十八日小笠原蜂起して大久保肥前守、大谷遠江守に仰せて銀山を騒動す、数度防戦手を尽しけれ共不叶して、終に奉行内田正重自害し、銀山又小笠原に属す、同十一年小笠原長隆卒す、同年小笠原兵部太輔長徳山吹の城に入る、同年八月四日大風雨ニて人多く死す、同十六年八月廿一日長徳卒す、其後長雄明年三月城に入、享禄四年より永禄三年に至り、二十四年の間小笠原銀山を領す、其後毛利元就銀山を取、平賀山城守、高畑源四郎を山吹の城に置かる、時に永禄四年五月也、尼子、本庄越中守其子五人へ五千余騎を差添へ、須佐高屋倉に差置き、芸州石州の通路を塞きしかハ、依之銀山糧道を絶けるにより、毛利家二万八千人を以、別府忍原ニ於て尼子合戦す、毛利方利無くして終に大将大内左衛門尉討死して尼子打勝、山吹城を攻落し、平賀高畑を自害せしむ、是より尼子伊賀守義久銀山を領し、本庄越中守を以山吹の城を守らしむ、此時銀を出す事夥し、毛利是を取返さんが為、三年の間忍びの者を遣ハし、忍原、剱山、鬼の茶臼の谷々に隠し置、隙を窺ふといへ共、尼子ハ大軍の事故可為様無りけり、元就力攻ニて落し難きを以、智謀を以本庄を誘ひ、味方に属さしめ、戦ハすして銀山を守らしむ、元亀二年六月十四日元就卒す、嫡輝元卿続て銀山を領せらる、其後天正年中秀吉公の上使近実若狭守毛利家より之使三井善兵衛、銀山を奉行せらる、

 

【史料◆枌羹ー堆

閏七月丙申。憲府啓して曰く、「全州判官柳緒宗、金海に居る時、私人を率いて海外加徳島に猟し、東莱県令に捉えらる。また京中富商を引き、その家に接主し、倭虜を誘引し、我が国の服を変着して、恣に買売を行わしむ。兵使に請いて曰く、「もし我に公文を給わば、すなわちまさに加徳島に入りて倭を捕うべし」と。兵使答えずしてこれを止む。その意はすなわち、その家に往来する商倭を殺し、己が功となさんと欲するなり。辺きんを生ずれば関するところ軽きにあらざるをもって、詔を下して獄し推考せんことを請う。」と。答えて曰く、「啓の如くせよ」と。八月癸末。政院に伝して曰く、「柳緒宗多く失する所あり。故に殞命を計らず、得情を期して刑訊するが可なり。但倭人と交通して、多く鉛鉄を貿い、吹錬して銀を作り、倭人をしてその術を伝習せしむる事、台諫の啓するところをもって推きくせよ。緒宗は武班の人と雖も、官、判官に至る。識なしとなさず。且つ吹錬作銀、人人これをなすべからず。必ずや匠人ありて、然る後すなわちなすべきなり。その家に匠人ありや否や、未だ知るべからざるなり。(中略)」と。

 

【史料】中宗実録

領議政尹殷輔等、議啓して曰く「日本国王の書啓の内、他辞は則ち当に使臣の入来を待ち、徐に之を議処すべし。商物の内、銀多く八万に至る

※日本国書啓に「我が北陸に山有り。其の名を『金山』と曰う。近年白銀を多く産す

                              (一五四二年)

 

【史料ぁ枌羹ー堆

政院啓して曰う、今唐人を推するに言語一致せず、奸詐をなさんとす、と。初めて居処を問うに、或いは河間と曰い、或いは福建と曰う。福建に何物有るやと問えば、則ち曰う、某山有り、と。即ち大明一統志を取りてこれを考するに、則ち果たしてこれ有り。又問う、何事に因りて到来するやと、と。則ち答えて曰う、貿銀の事を以て日本へ行くに、風が漂わせる所となりてここに致る、と。

              (一五五四年)

 

【史料ァ枳製ー堆

連源また曰う、倭人の我国において偸窃せんと欲するの心、何時にしても忌むべし。近く辺民を殺害すること無きは加徳島に鎮を設くるの功なり。歳遣船の糧料を加受してしからしめんと欲するにはあらざるなり。日本国の銀子多く産する故に、上国の人交通往来販貿して、或いは漂風に因りて来泊し、我国海辺に於て賊をなす。

               (一五五三年)

【史料Α曄懌岾た淙圈

漳州・泉州は沿海の地であり、広東・福建の人は予め各地の商品を民家に隠れ、倭人が来たら売る。倭人はただ銀をもって貨物を買い入れるだけで、西洋人が貨物を載せてきて貨物を取り替えていくのとは異なる。故に中国は倭寇の消息を知りたいなら、明人を商人と偽り南澳島に行かせ、倭人と交易させたら、倭寇が来るかどうか、来る人数がどれくらいあるのかということをすぐ察知できる。来年の倭寇の動向を知ることができる。

(一五六二年)

【史料А曄愿緩さ』

天文癸卯秋八月二十五日丁酉、我が西村の小浦に一の大船あり。何れの国より来るかを知らず。船客百余人、その形類せず、その語通ぜず。見る者もって奇怪となす。その中に大明の儒生一人、名は五峯なる者あり。今その姓字を詳らかにせず。時に西村の主宰に織部丞なる者あり。頗る文字を解す。偶五峯に遇いて、杖をもって沙上に書して云う「船中の客、何の国の人なるやを知らざるなり。何ぞその形の異なる哉。」と。五峯すなわち書して云う、「これは是れ西南蛮種の賈胡なり。…」と。賈胡の長二人あり、一を牟良叔舎と曰い、一を喜利志佗孟太と曰う。手に一物を携う。長さ二、三尺。その体為るや、中通じ外直にして重きをもって質となす。その中は常に通ずと雖も、その底は密塞を要す。その傍らに一穴あり、火を通ずるの路なり。形象、物の比倫すべきなり。その用為るや、妙薬をその中に入れて、添えうる小団鉛をもってす。

 

【史料】フランシスコ=ザビエル「一五五二年にロドリゲス神父に宛てた書簡」

カスチリア人は、この島々をプラタレアス群島(銀の島)と呼んでいる。…中略…日本の島々の外に銀のある島などは発見されていない

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