夢、健康、元気、、、今、バクは長い眠りから目覚め、夢あふれる未来へ飛び出しました。あなたの夢を応援するバクグッズ製作中!

Menu
トップページへ
きBAKUねっと

 

西  暦

年   号

で  き  ご  と

 

1309

延慶 2年

大内弘幸、石見銀山を発見するという

1339

建武年間

足利直冬銀山の露頭銀を取り尽くすという

1434

永享 6年

佐毘売山神社、銀山に勧請される

1451

宝徳 3年

大内氏、日明貿易(第11次)に参画する

1465

寛正 6年

遣明船に大内船も参加する

1477

文明 9年

足利義尚、大内左京大夫政弘へ、邇摩郡他を安堵する

1480

文明12年

備中備前の1駄10貫文の銅を寧波で雲州糸に交換すると40貫、50貫となる

1511

永正 8年

第16次の遣明船で大内船2艘が参加する

1516

永正13年

大内氏、日明貿易の勘合符を独占する

1517

永正14年

大内義興、石見国守護職に任ぜられる

大内義興、石見八幡宮(邇摩郡仁摩町大国)を新建立する

1521

大永 元年

尼子氏、石見国へ進出する

1522

大永 3年

尼子経久、江津波子浦を日御碕社に寄進する

1523

大永 4年

尼子経久、日御碕社の造営に際し、安濃、邇摩、邑智の3郡に棟別銭を賦課する(石東3郡は尼子氏の勢力下に)

1526

大永 6年

筑前国博多商人神谷寿貞、石見銀山を発見、開発する

1530

享禄 3年

中国では金銀比価は、金1に銀7

1533

天文 2年

灰吹法(銀精錬法)が石見銀山に伝わる

1537

天文 6年

尼子詮久、銀山を攻略する

1538

天文 7年

この年以降、大内氏は遣明船の配船を独占する(神谷主計、1号船の総船頭を勤める)

中宗実録に、日本商人が銀輸出を扱うようになったと記述あり

1539

天文 8年

大内義隆、銀山を奪回する。大内氏への毎年の運上は銀500枚になるという

中宗実録に、朴守栄が倭銀を輸入して中国に送る事態がおこる

中宗実録に、柳緒宗が倭人から鉛を買い、自宅で精錬し、その術を倭人に伝授したとして罪に問われると記述あり

1540

天文  9年

尼子詮久、銀山を攻略する

1541

天文10年

中宗実録に、倭銀の貿易は効果がないので、公貿易を増加して私貿易を禁止することを議案すると記述あり

1542

天文11年

佐渡鶴子銀山(新潟)が発見される

生野銀山(兵庫)が発見される(石州の銀掘、下財、銀吹などによって間歩が開発される)

昆布山大水が出て、1300余人が流れる

中宗実録に、日本は銀を大量に有しているので、貿易を許せばさらに増加すると記述あり

メンデスピントの記録に、コモレム諸島付近でプレマトグルデルなる海賊からファリアが8万両に達する物資を奪った。大部分は日本銀塊で、これは平戸からチャンチョウに向けて3隻の商船に舶載したものと記述あり

日本国王使僧安心、銀8万両の貿易を要求す

 

1543

天文12年

ポルトガル船種子島に漂着(鉄砲の伝来)

中宗実録に、倭銀を輸入して国内需要量を満たして、端川鉱山の採掘を制限すると記述あり

1545

天文14年

ポトシ銀山(ボリビア)が発見される

中宗実録に、日本商人は齊浦、釜山、熊川を通じて勝手に貿易を行っていると記述あり

メンデスピントの旅行記に、彼がリャンポーで日本が銀に富むことを伝えると、1ピコル40テールの生糸が8日間で160テールに上がったと記述あり

1549

天文18年

ザビエル日本にキリスト教を伝える

銀山山神神宮寺が建立される

1550

天文19年

長門国太田郷祥瑞庵住持善 首座、大内氏の使者として石見銀山へ赴く

日本での金銀比価は、金1に銀10

フロイスの記録に、この頃長崎は毎年50万クルザードの銀を輸出すると記述あり

1551

天文20年

大内義隆、陶晴賢の謀反により自刃する

 

1552

天文21年

ザビエルは書簡の中で日本をプラタレアス群島(銀の島)と記す

杵築大社御師坪内宗五郎、尼子晴久より銀山の内に、屋敷5ヶ所を与えられる

 

1553

天文22年

山吹城焼失。大内義長、刺賀長信に対し、焼失した安濃郡500貫地の証文を安堵する

明宗実録によれば、中国船舶が日本に往来して銀を購う

1555

弘治 元年

毛利元就、厳島の合戦にて陶晴賢を破る

1556

弘治  2年

毛利元就、石見へ侵攻。銀山を領有する

1558

永禄 元年

尼子晴久銀山を領有する

1559

永禄  2年

毛利元就、正親町天皇即位式に際し、石見銀2千貫目を献上する

1561

永禄 4年

この頃インドにいたイタリア人フレデリケは日本への輸入品に生糸、日本からの輸出品を銀としている

籌海図編に、倭人は生糸100斤ごとに直銀5〜60両で買い、その10倍で売ると記述あり

1562

永禄  5年

毛利元就が銀山を領有する

1567

永禄10年

ルソン島では、この頃から日本船の来船があり、中国船との出会い貿易で中国産の生糸と日本産の銀が取り引きされた

1571

元亀 2年

温泉津に鵜丸城を築くよう命じる

1572

元亀3年

フィリピンでは、日本人の船が来ると主な取引は銀で、銀2乃至2.5マルコを以て金1マルコに易ふ

1573

天正 元年

毛利氏、朝廷へ銀80枚を上納

1575

天正  3年

毛利氏、朝廷へ銀100枚を上納

1579

天正 7年

当時日本イエズス会は3万スクードを資産として所有。1万5千を生糸貿易の資金として4千以上の利益をあげる

1580

天正 8年

ポルトガル人は日本より銀以外は持ち出さず、日本より毎年銀60万クルザード以上輸出し、インドより持ち出す20万クルザード以上のものとあわせて交易に使用すると記述あり

1581

天正13年

フロイスの書簡に、長崎ではイエズス会のパードレ4人イルマン2人が駐在し、毎年50万クルザードの銀を輸出し、生糸、鍛子、麝香、黄金などを輸入

ポルトガル船は毎年5千万クルザードの銀を積み出す

1586

天正14年

毛利氏、朝廷へ銀100枚を上納

ヴァリニャーノの記録に、毎年中国・日本間のナウ船で資金を送って50又は70ピコの生糸を仕入れ、ここから毎年3千クルザードの利益が得られる

1587

天正15年

毛利氏、朝廷へ銀100枚を上納

秀吉は小西隆佐に銀2千貫を託し、長崎着津のポルトガル船の900ピコの生糸を買い占めさせた

1589

天正17年

細川幽齋、大浦より仁万、銀山を経由して温泉津恵光寺にて止宿す

教会領浦上からは、秀吉に没収されるまで、毎年50万クルザード以上の収入があったと記述あり

1590

天正18年

毛利氏、朝廷へ銀80枚を上納

1591

天正19年

この頃、毛利氏から豊臣秀吉へ、毛利分国中の銀山運上として銀子100枚が送られる

この年、マニラに入港した日本発の船舶は一隻、乗組員はポルトガル人と日本人と記述あり

1594

文禄 3年

豊臣秀吉、長崎入港の明船より鉛硝購入のため、蔵米1万2千石を石見銀山に送り、代わりに銀を長崎へ送らせる

1595

文禄 4年

佐渡鶴子銀山本口間歩が石州忠左右衛門、同弟忠四郎、石田忠兵衛によって開かれる

1587

慶長  2年

柳沢元政、豊臣氏に対し、7ヶ国の新銀山公用として1000枚を上納する

糸割符商人は、唐船から白糸1400斤を100斤あたり銀5貫160匁で買い京都商人に15貫160匁で売却

1588

慶長 3年

安芸の御領より、朝廷へ白銀100枚を上納

毛利氏、この年の銀山温泉津公用銀を2万2千枚と定める

1589

慶長 4年

この年、マニラに入港した日本発の船舶は10隻、ポルトガル人数名が日本からの船に乗船と記述あり

毛利氏、この年の銀山温泉津公用銀を3万枚と定める

1600

慶長 5年

毛利氏、この年の銀山温泉津公用銀を2万3千枚と定める

関ヶ原の戦い(徳川家康、銀山周辺7ヶ村に禁制を発し、直轄化を図る)

この頃、福建の貿易船では、交易で得た日本銀を船上で溶解して持ち帰るため、炉や吹子もあったと記述あり

                            島根県教委編『石見銀山遺跡総合調査報告書』から抜粋

■お問合わせ先■
母恵夢・BAKU 〒696-0007 島根県邑智郡川本町多田35-20
TEL/FAX(0855)72-1314 E-mail  
info@poem89.jp